プロフィール
HN:
札幌西高 文芸部
性別:
非公開
自己紹介:
北の大地なる札幌西高校の文芸部員がまったり管理するブログです。活動報告、雑談などなど混ざってます。
そのうちに誰かが文芸部にイノベーションを起こしてくれるような気がしないでもない。
*コメントはお気軽に。ネチケットお願いします。
*リンクはフリー。相互リンク歓迎します。
そのうちに誰かが文芸部にイノベーションを起こしてくれるような気がしないでもない。
*コメントはお気軽に。ネチケットお願いします。
*リンクはフリー。相互リンク歓迎します。
最新コメント
[05/21 如月 琴希]
[05/18 その友達]
[10/30 きさら(如月琴希)]
[09/29 照日晴太]
[07/23 通りすがり]
最新記事
(09/30)
(09/30)
(09/29)
(09/28)
(09/26)
最古記事
(12/21)
(12/22)
(12/22)
(12/24)
(12/25)
謎文の放出
文章のリアリティについて考えてみよう。
本当に切羽詰まった人の言葉は似るのか?
この問は、この文章を書くことになったきっかけであったりする。
これに関しては私の少ない知見から言わせてもらうと、似る。
吐き捨てるような言葉になりがちだからかもしれない。自棄的な側面が見えるからかもしれない。
とにかく、そういうときの人の言葉は似ている。
そして、その表現というのは恐ろしいほどにリアルである。迫ってくるものが、一語一語の重みというのが、全然違う。
自分の感情のリミッターのようなものが外れて、自分の中にとどめていたものが溢れだしているのがありありと感じられる。
特別語彙が多いってことはない。そういうものでは測れるような巧さじゃないが、そういうことを考えるのさえ忘れるほどに、実体を以て心を抉る。
そういう文は、誰のものであれ、読む度に、物理的に殴りつけられたような…そんな衝撃を受けるのだ。
このたぐいの文章って、多分、物書きの想像で書けるものではないし、そこに届いちゃいけないと思っている。
何故かって?
本当の思いが、本当に見えるべきものが、見えなくなるからだ。
もしかしたら、こう言うことで物書きの価値を否定していると取る方もいるだろう。別にそれはそれで構わない。結局何に価値を感じるかは人によりけりだからだ。だが、文章は何かを伝える手段という側面もあり、それが阻害されるようでは果たして文章の価値がどこにあるのか見えなくなる、というのが私の考えである
でも文章って、不思議なものだが絶対にその一線は超えない。限りなくリアルなものを書こうとしても、絶対に現実にはなれないのは誰もが知ることだが、それでも現実からこらえきれず溢れ出てくるものは現実に肉迫する真のリアルなのである。
ある文筆家は、作品の中のある描写で、描写をより写実的にするために自ら同様のことをしたという。それ自体きれいなものではないし、苦しみも代償となる行為だ。そんな意志も勇気もない自分には、到底できようもないことだった。作品のために自ら苦しみを味わった点において、私はその人を強く尊敬しているし、出来上がった作品の描写にも、体験した人にしか書けない生々しさをひしひしと感じた。
ところがどうか、それはたしかに私の中に否が応でも入り込むような凄さがあったが、不思議と、そうでない一般人が死地に書いた文には敵わないのである。
どちらも現実の経験から書かれたものであるが、両者を分けたのはその質であろう。本当に追い詰められてどうしても溢れる言葉の前には、書く前提での経験やそこから出てきた文は結局のところリアルに見える作り物に過ぎない。だからこそ、あえてではなく書かれた文は(現実そのものではなくとも)本物のリアルに成りうるのである。
…だなんて言っちゃってますが
どうでもいい考えを脳死状態のままに放出した半年前の記憶がそこにある。
(25年12月2日に書いたっきり放置状態だっただけのものを今公開してみる。改良版は148号にて)
PR
この記事にコメントする

