プロフィール
HN:
札幌西高 文芸部
性別:
非公開
自己紹介:
北の大地なる札幌西高校の文芸部員がまったり管理するブログです。活動報告、雑談などなど混ざってます。
そのうちに誰かが文芸部にイノベーションを起こしてくれるような気がしないでもない。
*コメントはお気軽に。ネチケットお願いします。
*リンクはフリー。相互リンク歓迎します。
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最新コメント
[10/30 きさら(如月琴希)]
[09/29 照日晴太]
[07/23 通りすがり]
[07/05 秋永准]
[06/05 あきら]
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(12/22)
(12/22)
(12/24)
(12/25)
いやぁ、これ本当。水筒とかがないと真面目につらいです。日が出ているのでけっこう気温上がってます、曇りとかの時より。体感気温が高いんですよね~。
それでも長袖でまともに過ごせるようになったのはありがたいことで、北海道も秋の訪れといったところでしょうか。朝なんか普通に寒いし。
秋という季節、個人的にはなんとなく好きです。何故、といわれてもたぶん答えられません。11月にもなるとそうとう寒く寂しくなるのはわかっているのですが、それでもそれも含めて秋という季節が何となく心地いいんです。
うーん。
なんというか、センチメンタルとでも言いますか、そういった感じがします。
センチメンタル:日本語で言えば「感傷的」
なんというか、これも私個人の意見なのですが「軽い」言葉ではないと思います。「重い」というわけではないのですが、変換ソフトに出た「ハートにバンソコ」の絵文字は流石に頭に来るというか、言葉のイメージと乖離しているように感じました。
言葉というものに本来の姿も何もあったものではないのでしょうが、それにしても最近は「元々あった本来の姿」に比べ、言葉そのものが全体的に軽く扱われているのではないか、と思ったりもします。
その良し悪しは別としても、そういう感性的な部分で、文化というか、生きている世界というか、そういうものの違いが出てくるのだと思います。私はそれを「価値観の違い」という言葉に集約させていたりします。
さっき私が変換候補を見て頭に来たといいましたが、それは価値観の違いに対応できないという良い例ではないでしょうか。
正直これに関しては仕方のないことだと思います。一番わかりやすいであろう例で言えば、たとえばお年を召した方が若者を毛嫌いするのはまさにこれでしょう。同世代でさえ受け入れがたいこともあるのに、あんなに年齢、ひいては生きた時代、そして価値観が異なる人間と相容れない部分があるのも当然なのだと思います。
ところで、さきほど最近は言葉の扱いが軽いと言いましたが、では最近は「言葉に対する価値観」が軽くなっているのかというと、そういう傾向があるというのが実情なんじゃないですかね。というか、言葉に表される物事自体に対する価値観の変容というのがあると思われます。
たとえば生死に対するそれについて考えてみると、現代日本では車に乗っても飛行機に乗っても鉄道でも船でも、あるいは労働現場にしたってそんなに事故ばかりではないですが、昔は事故だらけだったのは誰もが知るところでしょう。病気に対する治療も現代の技術はそうとうに高度です。
すると、「死」というものが非常に遠い存在であるかのように映るわけです。今の人が死ね殺すなどという言葉を簡単に使う傾向にあるのはそのせいでしょう。そういう価値観になってる訳です。これもある意味では時代ですし、あまり良い言葉ではないですが、仕方のない部分があるのでしょうね。
まあいろいろと寄り道しましたが、とりあえず今まで言ったことをまとめますと、言葉というのはその人の背景などから来る価値観の違いからその扱いが変わるということですね。
文章中の一つ一つの単語に筆者の価値観や考え方が出るとか入っているだとか、よくそういわれるのは、そのことが言葉は筆者の価値観のもとにしか綴られないという特性を表しているからなのでしょう。
それでも長袖でまともに過ごせるようになったのはありがたいことで、北海道も秋の訪れといったところでしょうか。朝なんか普通に寒いし。
秋という季節、個人的にはなんとなく好きです。何故、といわれてもたぶん答えられません。11月にもなるとそうとう寒く寂しくなるのはわかっているのですが、それでもそれも含めて秋という季節が何となく心地いいんです。
うーん。
なんというか、センチメンタルとでも言いますか、そういった感じがします。
センチメンタル:日本語で言えば「感傷的」
なんというか、これも私個人の意見なのですが「軽い」言葉ではないと思います。「重い」というわけではないのですが、変換ソフトに出た「ハートにバンソコ」の絵文字は流石に頭に来るというか、言葉のイメージと乖離しているように感じました。
言葉というものに本来の姿も何もあったものではないのでしょうが、それにしても最近は「元々あった本来の姿」に比べ、言葉そのものが全体的に軽く扱われているのではないか、と思ったりもします。
その良し悪しは別としても、そういう感性的な部分で、文化というか、生きている世界というか、そういうものの違いが出てくるのだと思います。私はそれを「価値観の違い」という言葉に集約させていたりします。
さっき私が変換候補を見て頭に来たといいましたが、それは価値観の違いに対応できないという良い例ではないでしょうか。
正直これに関しては仕方のないことだと思います。一番わかりやすいであろう例で言えば、たとえばお年を召した方が若者を毛嫌いするのはまさにこれでしょう。同世代でさえ受け入れがたいこともあるのに、あんなに年齢、ひいては生きた時代、そして価値観が異なる人間と相容れない部分があるのも当然なのだと思います。
ところで、さきほど最近は言葉の扱いが軽いと言いましたが、では最近は「言葉に対する価値観」が軽くなっているのかというと、そういう傾向があるというのが実情なんじゃないですかね。というか、言葉に表される物事自体に対する価値観の変容というのがあると思われます。
たとえば生死に対するそれについて考えてみると、現代日本では車に乗っても飛行機に乗っても鉄道でも船でも、あるいは労働現場にしたってそんなに事故ばかりではないですが、昔は事故だらけだったのは誰もが知るところでしょう。病気に対する治療も現代の技術はそうとうに高度です。
すると、「死」というものが非常に遠い存在であるかのように映るわけです。今の人が死ね殺すなどという言葉を簡単に使う傾向にあるのはそのせいでしょう。そういう価値観になってる訳です。これもある意味では時代ですし、あまり良い言葉ではないですが、仕方のない部分があるのでしょうね。
まあいろいろと寄り道しましたが、とりあえず今まで言ったことをまとめますと、言葉というのはその人の背景などから来る価値観の違いからその扱いが変わるということですね。
文章中の一つ一つの単語に筆者の価値観や考え方が出るとか入っているだとか、よくそういわれるのは、そのことが言葉は筆者の価値観のもとにしか綴られないという特性を表しているからなのでしょう。
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